私は文章が書けない

OL院生の文章リハビリ基地

この世で最も虚しい共感――アニエス・ヴァルダの『冬の旅』

アニエス・ヴァルダの『冬の旅』で死に至る少女モナの旅の過程はあまりに哀しく痛ましい。
モナと道中で関わり合いになる人々は、モナがいる間は一応彼女のことを気にかけるものの、離れた後に彼女の安否を気にして追いかけ探し回るような人はひとりも出てこない。
唯一その立ち位置に近かった女性教授は、その清潔で華麗に着飾った姿がモナの度々「汚い」と形容される身なりと残酷なまでに対比されており、そこには人間としての何か決定的な断絶のようなものが示されているように思う。
旅の過程で出会う人たちは、皆が皆、何かしらモナの「持たざる」要素を浮き彫りにする。家を持つ人、食べ物を持つ人、仕事を持つ人、資産を持つ人、哲学を持つ人、目標を持つ人、仲間を持つ人、情熱を持つ人――。
むろんそれは、モナが徹底して何も持たない少女だからであり、ヴァルダは決してドラマチックに悲劇を演出するような撮り方はしていない。むしろ突き放したように淡々とモナの足跡をたどる手つきが特徴的である。
モナは働きたくないこと、好んで放浪生活をしていることを主張するが、いざとなったときに何も縋るものがなくて、命を落としてしまう。一時は彼女を気に掛けたあの女性も、彼女に憧れたあの女性も、彼女とセックスをしたあの男やあの男も、彼女の危機の時にはだれひとりとして近くにはいなかった。本当に気にかけてくれる人がいなかったら、人は死んでしまうのだ。
モナと関わる人々は、彼女を労働の人手として捉えたり、都合のよい恋人(または性欲の捌け口)として扱ったり、あるいは女性教授のような親切心であってもどこか「身寄りのない汚い女の子」という上から目線が存在していて、主従の関係が透けて見える。日雇い労働や、住まいを提供してくれる男と一時的に恋愛関係になることをモナは「対等なギブアンドテイクの関係」と捉えているようだが、悲しいかな、与える側と持たざる側の主従関係からは逃れられていないように見える。
そんな中、屋敷の主人のお婆さんとの関係だけは例外で、「冬の旅」を通して冷え切った心がつかの間温まる場面である。あのお婆さんは、邸宅も資産も仕えてくれる者も持っているけれど、残りの寿命だけは多分そう長くはない。何も持っていないモナは、まだ若い。何もかもを持て余した老い先短い者と、何もないけれど未来の時間だけは持て余していたはずのモナが心を通わせた瞬間は、モナの死に向けてのひとつのターニングポイントだったように思う。あの時間の先には未来があったはずだが、あの時間が続かなかったことでモナは死ぬまで放浪し続けることが決定づけられてしまった。同時に、旅の終わりはそう遠いものではなくなってしまった。

冒頭で結末が示され、あとは淡々とモナの旅の様子が描かれるというきわめてシンプルな映画である『冬の旅』がなぜこんなにも人を惹きつけるのか。
私たちが絶望や孤独を感じるのは、自分に「ない」ものを自覚させられるときだ。高級取りの同年代を見て落ち込む。同じフィールドで自分よりも成功している人を見て憂鬱になる。ちやほやされている他人の姿や、SNSでフォロワー数の多い人なんかを見てモヤモヤする。結婚や同棲をしている友人を見てネガティブな気持ちになる。コミュニティの中で自分だけが馴染めていない時に憂鬱になる。
そんなとき、「私ははじめからそんなものは望んでいないんだ」と言い張って、何とも思っていないふりをしたくなる。自分の居場所、自分の取り柄、自分のフィールドが「ない」と認めることは何より辛いから。
世の中には、「ない」ことを自覚して、悲観して、吐露して生きている人もいるだろう。「ない」ことを耐え忍んで笑って生きている人もいるだろう。「ない」ことを甘んじて受け入れている人もいるだろう。「ない」ことを自ら選んでいる、というふりをしている人もいるだろう。
モナの孤独の在り方は、そのだれもが共感や自己投影をしやすいように思う。モナは自ら他人を突っぱねて奔放に振る舞っているようなところがあるけれど、その自由は彼女を救いはしなかった。彼女の行く先には「自由」と「孤独」の残酷なジレンマが立ちはだかっていた。「自由」と「孤独」を天秤にかけて生きる人は皆、彼女に共感をしたり、彼女を「こうなっていたかもしれない自分」の象徴のように見ることができるだろう。
そして、私たちからそんな都合の良い共感を寄せられるモナはますます可哀想だ。だって彼女は周りにこういう一過性の感情しか寄せられなかったせいで死んでしまったのだから。まるで共感をしていないヴァルダの冷めた視点は、自由を得たかったモナの最後のプライドを守っているといえる。

心の焼け跡で知と愛を貪るミューズ――佐々木千世(子)について

私が今までに読んだ紀行文で最も心奪われた作品は、稀覯本となって久しく、入手が不可能に近い。

佐々木千世(本名:佐々木千世子、1933-1970年)という人が著した『ようこそ!ヤポンカ』(1962)という本である。手元に置くことはできないが、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる(NDLと提携している大学図書館の閲覧PCからもアクセスが可能)。

この佐々木千世という人物は、開高健の長編小説『夏の闇』(1971)のヒロインである〈女〉のモデルとして知られる。あるいは、早稲田露文科の教師でありロシア・アヴァンギャルドの女性画家であったワルワーラ・ブブノワの愛弟子としても知られる。

*2019年に早稲田大学會津八一記念博物館でブブノワの企画展が開催されている。

佐々木千世は早稲田大学文学部でロシア文学を専攻し、細々としたライター業と流浪の日々を経て西ドイツのボン大学の研究員となった。同大学で博士号を取得した後、一時帰国中に深夜の交通事故で急逝した。新聞記事によれば享年37歳。

既存の文献から彼女について知りうるおよその情報は右記のブログ記事、自由人の系譜 開高健(3)「夏の闇」――『同伴者の本棚』よりにたいへん首尾よくまとめられており、私から付け足すことは何もない。
『ようこそ!ヤポンカ』からは、佐々木千世がロシア語、ドイツ語、英語を不自由なく操る語学堪能な女性であったことが窺える。現地の人からロシア語やドイツ語を賞賛されるようなくだりもある。ブブノワにロシア語で書簡をしたため、ドイツ語でノモンハン事件についての博士論文を書き上げているのだから当たり前といえば当たり前なのだが、奇しくも数十年後に同じ大学学部で同じ二言語を齧ってあえなく挫折した私に言わせれば、もっと脚光を浴びてもよかったはずの才覚の持ち主だと思う(早稲田文学部卒でこの二言語の習得者といえば、多和田葉子もいる)。同世代の才女としては須賀敦子などが挙げられるだろうか。

『ようこそ!ヤポンカ』の明朗で切れ味鋭い語り口の向こうに想像される聡明な女性像は、『夏の闇』の〈女〉の姿とぴったり重なる。一枚の写真にうつる彼女の姿も、いかにも怜悧な美人である。『夏の闇』では〈女〉が何やらがっしりとした身体つきであることが度々仄めかされるが、写真をみる限り、当時の女性としては痩せぎすでなかっただけで、外国人と一緒に写ってもちんちくりんには見えない綺麗なプロポーションをしているように思う(その後に肉付きがよくなったのかもしれないが)。
正直なところ私は開高健にはあまり興味がない。それでも『夏の闇』は傑作だと思う。快活さと陰鬱さ、奔放さと知性が表裏一体をなす〈女〉の言動と、そこに垣間みえる彼女の生き様が〈私〉の虚脱感と呼応していく――それは彼らが繰り返し情愛に耽る行為に象徴される――描写がみごとである。後半部に出てくるいくつかの〈女〉の長い独白の筆致は凄まじい。凄まじいが、ともすればこれらは実際に佐々木千世の口から発せられた言葉なのではないか、とも勘ぐってしまう。

彼女こそが開高のミューズであり、『夏の闇』によって永遠の〈女〉の称号を手にしたのだと確信させられる。むろん小説なのだから、脚色や事実の歪曲も大いにあるだろう。それにしても、〈女〉の稀有で危うい魅力がいったいどんな過去の経験と心の動きによって形成されたのかに何年もかけて思いを巡らす〈私〉=開高には、なんだかんだで(興味がないながらも)研ぎ澄まされた感受性と当人なりの誠意を感じたりする。
愛や死について思案させられる出来事があるたび、私は佐々木千世という人物について考えてしまう。彼女のなかで、知を貪ることと情愛を貪ることはどのように結び付いていたのか。彼女はその二者の間で危うい均衡を保っていたのだろうか。日本で騙し騙し生きるよりも、海外で辛酸を舐めながらも勉強に取り組むことが彼女の自尊心を守る手立てだったのだろうか。僭越きわまりないが、私には彼女に問いかけたいことがたくさんある――佐々木千世さん、あなたはどのように生きたかったのですか。あなたにとって勉強とは何だったのですか。あなたは愛を見つけることができたのですか――。その答えが、私の人生にとって何某かの指針になる気がしている。だから私は事あるごとに彼女の像に接近しようと試みて、『ようこそ!ヤポンカ』と『夏の闇』を読み返してしまうのだと思う。

私は文章が書けない

小学生の頃、毎日欠かさずに日記を書いて提出するという宿題があった。

一冊の日記帳が毎日、担任の先生と生徒の(そしてひょっとすると親の)手から手へと往復するのである。

担任は国語教育に非常に熱心な先生だった。子どもの日本語力と想像力を鍛えることがそのまま彼女の趣味であり日々の生きがいというような、今はわからないけれど一定以上前の年代の公立小学校の先生としてはある種の典型だった。

私は身体を動かすのがなにより嫌いなかわりに本を読むのがなにより好きな子どもだったので、学級文庫はひと通り読破したし、先生の指導方針で教えられた百人一首も積極的に暗記した。その先生にとっての「優等生」のひとりになれた、はずだった。

ところが、日記を書く宿題だけがどうしてもできなかった。

文章を書くのは苦じゃない。日常のなかでふと何かを思う感受性もどちらかといえばある方だったと思う。

それでも毎日文章を書いて出すということはできなかった。

原因のひとつはおそらく、「がんばる」ことが極端に苦手な怠け癖。もうひとつは、「毎日こつこつと同じことを繰り返しやる」ということができない飽き性。自分のしている行為に「こつこつと」という副詞が付くと気付いた途端にパタッとそれができなくなる、ということはその後の人生でも頻発した。

最後の砦として日記を書く行為を阻んだのは、日常のなかでふと感じた何かを文章化するのに、ものすごく時間がかかる――いったん忘れてから思い出したり、心の中で醸成するプロセスが必要になる――という私の性質だと今では思う。

それが証拠に、私は宿題に関しては呼び出しを食らうほどの「劣等生」にすっかりなり果てたものの、書けた日記のなかからどれかひとつを選んで作文にしなさい、という夏休みの課題では、私の作文が校内で選ばれて世田谷区の文集に掲載されるという結果を残すことができた。余談だが、世田谷区は公立小学校の総学生数がたぶん多いし教育水準もおそらく高いので、かつてあのいかつい文集に文章が載せられた人々は、(うだつの上がらない私とはちがって)みんな今頃立派な人や、文筆家になっていたりするのではないか、と想像したりする。

私が作文に選んだ日記の内容は、家の庭で見つけたカマキリを捕まえて観察した、というものだった。なにしろ選択肢(書けた日記)が極端に少なかったので、選ぶのは楽だった。私にとって、出来事をその日のうちに文章に書き起こすことはものすごく苦だったけれど、あとから思い出して膨らませることはいくらでもできた。ちなみに、その次の年も区の文集に作文を載せてもらえた。

いま、大学院生として論文を書くことにほとほと苦戦していて、あの日記のことが度々脳裏を過るようになった。去年書いた論文は、アイディアを思い付いてから書き上げるまでに二年半もかかっている。

私は時間がかかるのだ。あの文集に作文や読書感想文が載った他の子たちはどうだったんだろうか。もっとサクサク書ける子ばかりだったのか、私のように時間がかかるタイプの子もいたのか。みんな今も、何らかの形で書いているのだろうか。もしかしたら多くの人はワードよりもエクセルばっかり触っているかもしれないけれど。

 

そんなことを思い出しているうちに、それじゃあすでに醸成されている事柄ならば、私もコンスタントに書き続けることができるのではないか?と、今日思い立った。

去年論文を書きながら、文章を書く筋力の衰えみたいなものをひしひしと感じ、かなりの危機感を抱いたのだ。諸々の事情で研究活動をしばらく休んでいて、久方ぶりの執筆だったのもあるだろう。なんでもいいから書けることは書き続けてみようと思う。

 

 

老人は踊り子の夢を見るか――伊藤郁女、笈田ヨシ『Le Tambour de soie 綾の鼓』KAAT神奈川芸術劇場 感想

2021年の年の瀬にKAAT神奈川芸術劇場で上演された伊藤郁女と笈田ヨシによる『Le Tambour de soie 綾の鼓』が大変素晴らしかった。

久しぶりに「この舞台に出会えてよかった」と思えた作品だった。
自分の心に響く作品とそうでない作品、どちらに当たるか蓋を開けてみるまでわからない観劇という博打行為の連続の中で、これまでの全舞台分の足労とチケット代が一夜にしてすべて報われるような、そんな作品がある。観劇という行為に勤しむ人間はきっとその歓びの味を知っているから、こんなコストのかかる趣味に身を投じるのだと思う。


この作品は、能の『綾鼓』を三島由紀夫が翻案した『綾の鼓(『近代能楽集』収録)』を題材に、ジャン=クロード・カリエールがテキストを手掛け、コンテンポラリーダンス振付家・ダンサーである伊藤郁女と御年88歳の伝説の俳優笈田ヨシが演出・出演している。2020年10月のアヴィニョン芸術週間(フランス)で初演された作品で、笈田ヨシ扮する年老いた劇場清掃員と伊藤郁女扮する若い踊り子が朗誦する台詞は、ほとんどフランス語である(日本語字幕付き)。

能の『綾鼓』は皇居の庭掃きの老人が女御に激しく恋慕する話で、「鼓の音が聞こえれば姿を現す」と女御から渡された鼓をとうとう鳴らすことができなかった老人は、池に身を投げて死ぬ。老人は恐ろしい怨霊となって池に現れ、鳴らないはずの鼓を打ち鳴らしながら女御に恨み言をぶつける。能『綾鼓』は随分と老人に酷な話で、老人と女御の間で心が通い合う瞬間はない。身の丈知らずの恋をして最後には相手を呪う存在となってしまう悲しい老いぼれの話だ。

三島の『綾の鼓』は、能における女御の心情の不明瞭さを、強調しつつ読み手の解釈を促す翻案をしているように感じられる。法律事務所の老小使の岩吉は向かいの洋装店の娘華子に恋をし、恋文をしたためては事務員の加代子に届けさせる。岩吉は華子の取り巻きの者どもに揶揄われて「鳴らない鼓」を渡され、無念の末にビルから投身自殺をする。恋慕された華子自身は取り巻きの意地悪い企てにただ微笑んで頷いてしまっただけで、作中で本人が述べる通り直接手を下してはいない。亡霊となって現れた岩吉に、華子は自分に窃盗の経験があること、昔の男に掘られた刺青があることを語って聞かせた上で、再び鼓を鳴らさせる。『綾の鼓』の華子は老人が嫌だったのではなく、自分が老人の夢見るような純粋な女ではないために生前の老人の想いに何とも答えることができなかったのではないか。そして、取り巻きがやったように岩吉を笑い物にし痛い目に合わせる目的ではなく、ありのままの自分にどこまで執心できるかを試すために、改めて鼓を鳴らさせたのではないか。そんな解釈の可能性を三島は残している。

伊藤・笈田版『綾の鼓』では、老人は劇場の清掃員、娘は劇場で舞う踊り子だ。冒頭から、劇場の灯りをともし、床を掃きながらフランス語詩を朗誦し、入ってきた踊り子に朗らかに挨拶する老人の姿に惹きつけられる。能楽と現代演劇の双方に通じ、フランスの国際演劇センターで演出家ピーター・ブルックと協同し、長きにわたって国際的に活躍した伝説の俳優であり演出家の笈田ヨシ三島由紀夫とも縁を持つ。そんな伝説の俳優が今回老人を演じる姿にはしかし、こちらが身構えたようなただならぬオーラとか重々しさみたいなものが、全然なかった。あまりに自然で、あまりに身軽だった。演じられたキャラクターとそれを観ている私の間に「役者」という媒体が一枚挟まっていることをまったく意識させない。いま目の前にいるのが、本当に毎日こんな風に独り淡々と床を磨く派遣労働者なんじゃないかと、考えるより先に見たまま納得してしまうほどに自然体だった。これが演技の熟達の境地なのかと舌を巻いた。

伊藤郁女の演じる踊り子は、SPACの吉見亮演じる打楽器奏者に指示を出しながら踊るコミカルなリハーサルの場面を通して、ちゃきちゃきした踊り子像を見せる。伊藤郁女は舞台の「内」と「外」を意識させる演技力が素晴らしかった。劇中劇で本番の舞台で舞う場面では、舞いに老人への思いが乗っているかのように錯覚するほど、感情の乗った迫真の演技をする。それだけの感情が劇中劇の終わりにはフッと抜け、「お疲れ様でしたー」と言う。彼女と老人が少しでも気持ちが通じ合っているような気がしてしまったのは、踊りを生業とする彼女の演技力が見せた幻だったのか、といった具合にわれわれも老人と一緒に騙されてしまうのだ。

はたしてこの『綾の鼓』の老人が抱いているのは本当に「恋情」なのだろうかと疑問に思う。能の『綾鼓』は「一方的な激しい恋情」が物語のトリガーになる。三島版での岩吉は事務員の加代子と恋愛話をしていて、その感情が恋であることが明言される。笈田扮する老人は、それほど明確にロマンティックな欲望を抱いているようには見えない。はじめに伊藤が踊って見せて、笈田がそのステップを懸命に模倣する、ということを繰り返して二人が戯れ踊る場面では、老人の「いやいや自分なんて」という慎ましい照れと遠慮が見て取れた。このちぐはぐな二人の微笑ましく幸せな交流を伝えるデュエットは絶品だった。

この老人の欲望は、観る人によっていかようにも解釈できるように感じた。そもそも恋情というもの自体、定義も形成過程も一筋縄ではなく、友愛・親愛・人と交流するときの温かい気持ちなどが状態変化して、もしくは状態変化したと本人が錯覚することで湧き上がったりもする。台詞はあっても二人の感情の種類を決して説明しない詩的な台本がまた解釈可能性を拡げている。そして何よりこの作品で二人の感情を伝えるのは、舞踊というこれまた散文的な表現手法だ。

この『綾の鼓』に見出されるのは「踊り子に叶わぬ恋をする哀れな老人とそれを足蹴にする踊り子」かもしれないし、「踊り子ともっと交流したいと願う老人とそれを恋情と思い遠ざけてしまう踊り子」かもしれないし、「踊り子にただ嫌われたくない老人と恋心を伝えて来ればいいのにと痺れを切らす踊り子」かもしれない。真剣に舞うときと若い娘らしくくだける瞬間とをケロッと切り替える伊藤の演技も、若い娘の思わせぶり具合とその感情の多様な解釈可能性を助長する。

ただ、二人が戯れ踊っていたとき、かけがえのない幸福な時間がそこに流れていたことだけが確かだ。そのときだけは、互いが互いに抱く感情がどうであろうと、外面内面ともにどんなにちぐはぐな二人であろうと、同じステップを踏むことに純粋に喜び合えていたから。「鼓の音」などというたしかなものを求めて、音が鳴るとか鳴らないとか、聞こえるとか聞こえないとか、そんな駆け引きをする必要はなかったのかもしれない。あのデュエットは、二人が根本的に異なる存在(身体)だったとしても、確実に分かち合えるもの(ステップ)があることを示していた。それだけで幸せだったのではないか。けれども人は今ある感情の「その先」を求めてしまう。

老人は最後に踊り子が置いて行ったカセットから流れる陽気なポップスに乗って、夢心地で踊る。幸せそうに踊る老人は、夢を見ているのだろうか。踊り子を想っているのだろうか。踊り子との交流を回想しているのだろうか。二人の交流に終わりを告げられてしまったことを、忘れようとしているのだろうか。踊り子がくれた若返るような楽しい時間そのものにいつまでも浸っていたい、という風に私には見えた。


一見愛を失ったこの世界は、じつは定義しない方が幸せな愛で溢れているのかもしれない。最後の老人のダンスを見ながら、そんなことを思った。

人生最高のドライブ

ドライブ中の光景や会話って、妙に生々しく記憶に残る。映画『ドライブ・マイ・カー』を観て、そんなことを思った。実体験として、「車に乗せてもらった」というだけのことなのに、心の隠し扉のようなところに、何か重要で謎めいた出来事として仕舞われている記憶が私にはある。ひょっとしたら、ドライブの記憶でこんなに心に残ることは後にも先にもないのではないか、とさえ思う。

それはイギリスの大学院に留学していた頃の話。
大学院に留学中の活動というのは、ほとんど指導教授の厚意によって成り立つ。私の指導教授は私を様々な研究イベントに呼んでは、居合わせた人々のうち手頃な研究者と私を引き合わせ、会話をさせてくれた。それは、教授がとても顔の広い人であり、それゆえどこかへ赴けば次から次へと目まぐるしく仲間に挨拶し続けるはめになり、私のことを気に掛ける一方とても私のことにかまい続けてはいられない、という状況から起こる出来事だ。
留学を開始してまだ間もない頃、研究者が集まる数日間の集中イベントのような場があった。開催地は私の住む街から車で40分ほど。教授は例によって絶え間なく誰それと挨拶を交わし、その間も私の面倒も見ようとするものだから、自分の知り合いと私を忙しなく互いに紹介させるという場面が度々あった。その中には私も著書を読んだことがあるような研究者もいれば、特に研究者でも教員でもない謎の人もいて、研究者かどうかも分からずじまいということすらあった。
さて、教授とその先生――仮にJ先生とする――がイベント終了後の人込みの中で話し始めたとき、何やら個人的な会話をしていたので私はよく聞いていなかった。研究の話だったら雑音の中から必死に聞き取ろうとするのだけど。どうやら、「僕は明日もあるからAirBNBでこの街に泊まることにしたんだよ。あ、じゃあ代わりにあの子を乗せてあげられない? 彼女は帰るはずだよ!」というようなことを教授が言ったらしい。突然私に話が及んできた。J先生は私たちの大学の別の学科にいる女性教員で、車で来ていて、行きは指導教授を乗せたらしい。教授は帰らないけど私は同じ街に帰るので、乗せていってくれるとのことだった。
そんな成り行きから、私はJ先生の車に乗った。J先生は全然研究の話をしない。院生は教えていないらしく、普段周りにいる先生たちに輪をかけてフランクだ。「あなた英語うまいわよ本当に。英語圏への留学は初めて? 嘘でしょ信じないわよ」とか「ベルリンに住んだことがあるのね! じゃあクラブ行ってラリった経験ある?」とか、そんな会話だった。

J先生はサバサバしていてせっかちで、かっこいいけれど挙動も話題の飛び方もちょっととっ散らかってる。この性格の女性の先生に、私はものすごく覚えがある。日本の大学から大学院までずっと私の面倒を見てくれていたK先生と瓜二つなのである。K先生がイギリスまで付いてきたのかと思ったくらいだ。K先生の喋り方を英語にしたらこうなるのか、と妙な納得をした。もちろんFワードは連発だ。

行きに通った道だというのにJ先生は道を間違えまくる。森の奥深くに入っていきそうな暗闇に包まれたところで彼女は違和感に気付き、私にGoogleマップを開かせた。「私イカれてるんだわ」と落ち込んでみせたかと思えば、私の経路指示に対して「一本先を曲がる? ならここで曲がっても同じね!」とか言って一本手前を曲がる。そして遠ざかる目的地。

メチャクチャな運転をしてFワードを連発しながらJ先生が私に語りかけてくるのは、「私の両親は昔ながらのダンスホールで出会ったのよ」とか、「日本で大変な津波があったでしょう。本当に心が痛んだ」といった温かい内容ばかりだった。それから、私の名前を英語に訳すとこんな風になる、という話をいたく気に入ってくれて、「もうあなたの名前完璧に覚えたわ。次に会ったときは私からあなたの名前言ってみせるから、名乗らないでね!」と告げた。学科が違うとはいえどこかでもう一度くらいは会うだろうと思っていたのに、その「次に会ったとき」が来ることはなかった。

Googleマップに従わないのはどうかと思いつつ、私はこのドライブが終わってほしくなかった。その思いが届いてしまったのか、その後もJ先生は「ここからはもう私たちの街だから!」「迷った分ここでショートカットすれば早く帰れるわ」などと言いながら道を間違え続けた。私も言葉を返しはしたけれど、なんだかすごく面白い深夜ラジオを聴いているような気分だった。

私の家まではしばらく長い一本道が続くので、もう間違えようがなかった。J先生は私を無事送り届けられるので心底安心したようだった。「これは家に着いたら紅茶飲むのが最高ね」と彼女は言った。たしかに身体は冷え切っていた。

車を降りるとき、「もう、ひっどい運転で本当にごめんね!」とJ先生が言うので、私は「すごく楽しいドライブだった、絶対忘れられない」と返した。偽りない本心である。J先生は「変な子ね(You’re so weird)!」と言って笑った。

家に帰って私は熱い紅茶を啜りながら、先ほどのドライブの道のりを何度も反芻した。

まだ見ぬ函館の夜景

遠く小さく、それでもなお視界から消滅してはいない星のような記憶の話。

 

学生時代の一時期、私はとあるオフィスビルの中でワゴンでコーヒーを売り歩くアルバイトをしていた。就業時間を店舗の狭い空間内でやり過ごす苦痛がなく、また売り歩く順路やペースも特に決められていない点が、なんとなく開放的でやりやすかった。
大抵いつも同じ人が同じ扉から出てきてコーヒーを買ってくれるので、どの地点で誰がどのサイズのコーヒーを買うか、大体覚えていた。コーヒーを買い求めるデスクワーカーの人々のほかに交流があったのは、昼の時間帯にお弁当を売り歩く他店の店員さんたちと、高齢の清掃員の方々だ。清掃員の方々も、時々コーヒーを買ってくれた。なかでもKさんは、私たちの常連客だった。
私たちは全ての廊下をまわり終えると、エレベーター前のスペースでワゴンの上を整えたりお金を数えたりしながら小休止する。そんな時にKさんに出くわすと、たちまち雑談に花が咲いた。Kさんはいつも人懐っこい笑顔で話しかけてくる、まるで少年のようなおじいさんだった。小柄で髪も黒かった。とても気さくで、私たちのカフェ店舗前に出たゴキブリをヒョイとやっつけてくれたこともあった。

Kさんは函館の出身だと言う。目をキラキラと輝かせながら、勤務中の私に函館の自然や夜景の美しさを語って聞かせた。本当に少年のようで、まるで昨日上京してきたばかりのような口振りで故郷の話をし続けた。「うちのおっ母は〜」なんて言い方をするのだ。私はスマートフォンで函館の夜景を調べた。たしかに綺麗だった。この夜景が常にKさんの網膜にあるのだな、と思った。「あの頃の」、「昔の」函館ではない。ただ「函館は、美しい」。そういう語り方をKさんはした。そうして私は、函館の夜景がもつ不思議な魔力をKさんから教わった。いつまでも純粋な心を失わせない魔力。絶対的価値としての「美しさ」というものを信じさせてくれる魔力。
Sさんという女性の清掃員も、たまにコーヒーか紅茶を買ってくれた。Sさんはいつも綺麗にお化粧をしていて、澄ました表情をしているけれど話すとおっとりとしてチャーミングな方だった。ある時期からKさんは私たち売り子を見かけると、「Sちゃんの分も!」と言って2つ買うようになった。偶然その場にSさんが現れることもあって、二人が揃うと夫婦漫才のような掛け合いが始まった。と言うより、面白い化学反応を起こす思春期の男女さながらだった。私たち売り子は、「あの二人仲良すぎじゃない?」「今日は私から買っていって、こんなやり取りしてたよ」などと話しては笑った。
そのうち私たちの仕事はなくなってしまった。Kさんはその少し前から見かけなくなっていて、閉店を告げる機会もないまま会えなくなってしまった。体調を崩したのではないかと心配だった。もしかすると、清掃員の持ち場の異動などがあったのかもしれない。オフィスビルなので、私もバイトを辞めると同時に通行証を返却し、もう二度とそこに足を踏み入れることはできなくなってしまった。
私はまだ函館を訪れたことがない。Kさんの生まれ故郷を見れば、彼の少年のごとき若々しさの理由がわかるのかもしれない。

水を潜り生と向き合う――映画『Waves』感想 2020年冬

最近観に行こうと思っていた映画を悉く見逃している。気休めに過去に映画館で観て心に残った作品を遡っていて、イギリス留学中に観に行った映画『Waves』の感想メモを掘り起こした。レビューの印象などは当時のもの。日本公開前の話。

 

南フロリダの広大で美しい風景、センスが良すぎてちょっと映画から浮いてるようにさえ思えた選曲(フランク・オーシャン、ケンドリック・ラマー、H.E.R.など)、『ムーンライト』を彷彿とさせる映像詩的な表現――以上がこの映画の全体的な特徴だろうか。

物語は「兄の物語」である前半部と「妹の物語」である後半部に分かれる。英語のレビューをざっと見た限りでは、前半だけ良かったと言う人と、後半の方が好きだと言う人、半々くらいの印象だ。私は完全に、前半の「兄の物語」は後半の「妹の物語」のためにこそ存在するものと感じた。だって兄には全く同情の余地がないから。

後半の「妹の物語」は前半と比べてスローテンポだが、とても大切で重いパートだ。妹は兄と比べると、厳格な両親と適当に折り合いをつけて生きてきたであろうことが、キリスト教に関する描写から想像される。あるいは、両親の期待とプレッシャーが兄に集中していたために、うまく「すり抜けて」生きてきた側面もあるだろう。

前半の出来事を経て、彼女はとある後悔を一人で抱え、周囲の目に人知れず傷つきながら過ごすことになる。ある男との出会いを起点に、彼女が「自分の」「生身の」体験を大切にしてゆく過程がかなり繊細に丁寧に描かれるのが後半のポイントだと思う。彼女はマナティを見に川へ行き、川へ飛び込み、また別の場面でも水の中をくぐる。水とは、自らの身体の感覚、生の感覚を意識させるものだ。水という象徴的要素もあいまって、このあたりの妹の表情からは単なる恋の喜びというよりも、自らの生を生きる喜びが感じられる。

さらに彼女は、病人を見舞う体験を通して「家族」と「赦し」について考える。どんな酷いこと、法に触れることをしても、その全ての悲しみや苦しみを全員で共有することでしか自分と家族は前に進めないと、彼女は気付いてゆく。後半部の途中で彼女と父は、それぞれの「もっと違った行動を取れたはずなのに」という後悔を打ち明け、痛みを分かち合うことでようやく心を通わせる。また、彼女はおそらく兄の失敗があったからこそ、母に正直に自分の出来事や気持ちを伝えようという意思表示をする。彼女は信心深い人間ではなかったけれど、結果的に、自分にも他人にも心を開くことで家族全体を救済することになる。

妹は自らの生を主体的に捉えたうえで、家族と恋人と本当の意味で関わり続けることを選び、そのことによって家族に償いと赦しの道筋を示す。だいぶ胸糞な前半部もその過程を描くための筋立てだったと思えば、音楽先行で作ったわりには良くできたストーリーだと思う。