私は文章が書けない

OL院生の文章リハビリ基地

ベルリン・ユダヤ博物館、ホロコーストの塔の体験 2016年夏

ドイツをふらふらと遊学していた2016年の夏、私はベルリン・ユダヤ博物館を訪れた。徒歩圏内にBerlinische Galerieという、ギャラリーというよりは美術館規模の施設があり、そこへ行ったついでに足を延ばしてみることにしたのだ。

Googleマップの経路に従って細い道に入ろうとすると、そこにいたおじさんに「ユダヤ博物館行こうとしてる?今この先工事してるからあっちから回って」とガムを差し出しながら言われ、なぜか執拗に「これあげる」「ただのガムやで、どこでも売ってるやつ、遠慮すんなって」と勧められたのを覚えている。べつに内容物を怪しんだわけじゃなく、海外のキシリトール味は苦手なものが多いので、丁重に断った。


ベルリン・ユダヤ博物館は音声ガイドの言語が非常に充実していて、日本語でたくさん解説を聞くことができた。そのおかげもあってか展示内容はいまでも重く心に残っているが、一方でダニエル・リベスキンドによる建築そのものがいちばん肌感覚に残る記憶となった。

館内の空間は、全てが鋭角で、斜めで、斜面に行く先を狭められていくようで、寒々とした質感だ。

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順路を進むと、「ホロコーストの塔」という何もない空間に出会う。高い壁(24メートルだそう)に挟まれ、遥か頭上の裂け目からわずかな光が差し込む。

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この空間が何を表しているのかは誰にでも察しがつくし、下手に色々書くのはやめておく。ひとつだけ書き記すと、空間に「何もない」だけでなく、家族も人との繋がりも肉体の主導権も人間の尊厳も「何もかもなくされた」人々がそこにいたのだと、私たちは展示資料から教えられたうえで、ここに佇むことになる。

 

ホロコーストの塔に佇んでいて、私はふと、今までの人生で触れてきたもの、楽しんできたものが何もかも、その主体である私自身の姿勢からして、根本的に間違っていたのではないか、という気持ちになった。作品、物事、あるいは状況に接するとは、本来こういう体験なのではないか、と。

振り返れば高校時代の私も大学時代の私も、狭い穴蔵の中から世界を見渡した気になっているようなところがずっとあった。ここへ来て、そんな自意識が心の底から恥ずかしくなった。テオドール・アドルノが残した「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」という有名な言葉を思い出さずにはいられない体験である。

人間性という神話を脅かす惨劇――Black Lives Matterや香港民主化デモに見られるように、今なおそれに直面する人たちがいる――の後に何が可能か、どういうことなら表現しうるのか。進歩史観に正しい部分があるのだとすれば、それはより多くの惨劇を経た末に人が何を祈り、何を表現することができるのか、という試みに掛かっているのかもしれない。

そう考えると、改めてベルリン・ユダヤ博物館の建築がリベスキンドの手によるということはとても重要な事実だ。リベスキンドはこのユダヤ博物館以降こそ世界的な建築家として名を馳せたが、それより前は「建築家」と言っても実作がなく、素描ばかりを描いている「建築思想家」だったそうだ。「建てられない」建築家がようやく建てた、鋭角で剝き出しで急斜面で不安定な建築物が、ベルリン・ユダヤ博物館。その人選は、ポーランド生まれのユダヤアメリカ人というリベスキンドのバックグラウンドも相まって、とても納得いくものであるように思われる。建築の実現可能性すら度外視で「どんなものなら建てたいのか」を突き詰め、慎重に厳粛にそっと歩みを進めたリベスキンドの姿勢は、アウシュヴィッツ以後の表象の不可能性にせめて向き合おうとする芸術家のそれだからだ。