私は文章が書けない

OL院生の文章リハビリ基地

老人は踊り子の夢を見るか――伊藤郁女、笈田ヨシ『Le Tambour de soie 綾の鼓』KAAT神奈川芸術劇場 感想

2021年の年の瀬にKAAT神奈川芸術劇場で上演された伊藤郁女と笈田ヨシによる『Le Tambour de soie 綾の鼓』が大変素晴らしかった。

久しぶりに「この舞台に出会えてよかった」と思えた作品だった。
自分の心に響く作品とそうでない作品、どちらに当たるか蓋を開けてみるまでわからない観劇という博打行為の連続の中で、これまでの全舞台分の足労とチケット代が一夜にしてすべて報われるような、そんな作品がある。観劇という行為に勤しむ人間はきっとその歓びの味を知っているから、こんなコストのかかる趣味に身を投じるのだと思う。


この作品は、能の『綾鼓』を三島由紀夫が翻案した『綾の鼓(『近代能楽集』収録)』を題材に、ジャン=クロード・カリエールがテキストを手掛け、コンテンポラリーダンス振付家・ダンサーである伊藤郁女と御年88歳の伝説の俳優笈田ヨシが演出・出演している。2020年10月のアヴィニョン芸術週間(フランス)で初演された作品で、笈田ヨシ扮する年老いた劇場清掃員と伊藤郁女扮する若い踊り子が朗誦する台詞は、ほとんどフランス語である(日本語字幕付き)。

能の『綾鼓』は皇居の庭掃きの老人が女御に激しく恋慕する話で、「鼓の音が聞こえれば姿を現す」と女御から渡された鼓をとうとう鳴らすことができなかった老人は、池に身を投げて死ぬ。老人は恐ろしい怨霊となって池に現れ、鳴らないはずの鼓を打ち鳴らしながら女御に恨み言をぶつける。能『綾鼓』は随分と老人に酷な話で、老人と女御の間で心が通い合う瞬間はない。身の丈知らずの恋をして最後には相手を呪う存在となってしまう悲しい老いぼれの話だ。

三島の『綾の鼓』は、能における女御の心情の不明瞭さを、強調しつつ読み手の解釈を促す翻案をしているように感じられる。法律事務所の老小使の岩吉は向かいの洋装店の娘華子に恋をし、恋文をしたためては事務員の加代子に届けさせる。岩吉は華子の取り巻きの者どもに揶揄われて「鳴らない鼓」を渡され、無念の末にビルから投身自殺をする。恋慕された華子自身は取り巻きの意地悪い企てにただ微笑んで頷いてしまっただけで、作中で本人が述べる通り直接手を下してはいない。亡霊となって現れた岩吉に、華子は自分に窃盗の経験があること、昔の男に掘られた刺青があることを語って聞かせた上で、再び鼓を鳴らさせる。『綾の鼓』の華子は老人が嫌だったのではなく、自分が老人の夢見るような純粋な女ではないために生前の老人の想いに何とも答えることができなかったのではないか。そして、取り巻きがやったように岩吉を笑い物にし痛い目に合わせる目的ではなく、ありのままの自分にどこまで執心できるかを試すために、改めて鼓を鳴らさせたのではないか。そんな解釈の可能性を三島は残している。

伊藤・笈田版『綾の鼓』では、老人は劇場の清掃員、娘は劇場で舞う踊り子だ。冒頭から、劇場の灯りをともし、床を掃きながらフランス語詩を朗誦し、入ってきた踊り子に朗らかに挨拶する老人の姿に惹きつけられる。能楽と現代演劇の双方に通じ、フランスの国際演劇センターで演出家ピーター・ブルックと協同し、長きにわたって国際的に活躍した伝説の俳優であり演出家の笈田ヨシ三島由紀夫とも縁を持つ。そんな伝説の俳優が今回老人を演じる姿にはしかし、こちらが身構えたようなただならぬオーラとか重々しさみたいなものが、全然なかった。あまりに自然で、あまりに身軽だった。演じられたキャラクターとそれを観ている私の間に「役者」という媒体が一枚挟まっていることをまったく意識させない。いま目の前にいるのが、本当に毎日こんな風に独り淡々と床を磨く派遣労働者なんじゃないかと、考えるより先に見たまま納得してしまうほどに自然体だった。これが演技の熟達の境地なのかと舌を巻いた。

伊藤郁女の演じる踊り子は、SPACの吉見亮演じる打楽器奏者に指示を出しながら踊るコミカルなリハーサルの場面を通して、ちゃきちゃきした踊り子像を見せる。伊藤郁女は舞台の「内」と「外」を意識させる演技力が素晴らしかった。劇中劇で本番の舞台で舞う場面では、舞いに老人への思いが乗っているかのように錯覚するほど、感情の乗った迫真の演技をする。それだけの感情が劇中劇の終わりにはフッと抜け、「お疲れ様でしたー」と言う。彼女と老人が少しでも気持ちが通じ合っているような気がしてしまったのは、踊りを生業とする彼女の演技力が見せた幻だったのか、といった具合にわれわれも老人と一緒に騙されてしまうのだ。

はたしてこの『綾の鼓』の老人が抱いているのは本当に「恋情」なのだろうかと疑問に思う。能の『綾鼓』は「一方的な激しい恋情」が物語のトリガーになる。三島版での岩吉は事務員の加代子と恋愛話をしていて、その感情が恋であることが明言される。笈田扮する老人は、それほど明確にロマンティックな欲望を抱いているようには見えない。はじめに伊藤が踊って見せて、笈田がそのステップを懸命に模倣する、ということを繰り返して二人が戯れ踊る場面では、老人の「いやいや自分なんて」という慎ましい照れと遠慮が見て取れた。このちぐはぐな二人の微笑ましく幸せな交流を伝えるデュエットは絶品だった。

この老人の欲望は、観る人によっていかようにも解釈できるように感じた。そもそも恋情というもの自体、定義も形成過程も一筋縄ではなく、友愛・親愛・人と交流するときの温かい気持ちなどが状態変化して、もしくは状態変化したと本人が錯覚することで湧き上がったりもする。台詞はあっても二人の感情の種類を決して説明しない詩的な台本がまた解釈可能性を拡げている。そして何よりこの作品で二人の感情を伝えるのは、舞踊というこれまた散文的な表現手法だ。

この『綾の鼓』に見出されるのは「踊り子に叶わぬ恋をする哀れな老人とそれを足蹴にする踊り子」かもしれないし、「踊り子ともっと交流したいと願う老人とそれを恋情と思い遠ざけてしまう踊り子」かもしれないし、「踊り子にただ嫌われたくない老人と恋心を伝えて来ればいいのにと痺れを切らす踊り子」かもしれない。真剣に舞うときと若い娘らしくくだける瞬間とをケロッと切り替える伊藤の演技も、若い娘の思わせぶり具合とその感情の多様な解釈可能性を助長する。

ただ、二人が戯れ踊っていたとき、かけがえのない幸福な時間がそこに流れていたことだけが確かだ。そのときだけは、互いが互いに抱く感情がどうであろうと、外面内面ともにどんなにちぐはぐな二人であろうと、同じステップを踏むことに純粋に喜び合えていたから。「鼓の音」などというたしかなものを求めて、音が鳴るとか鳴らないとか、聞こえるとか聞こえないとか、そんな駆け引きをする必要はなかったのかもしれない。あのデュエットは、二人が根本的に異なる存在(身体)だったとしても、確実に分かち合えるもの(ステップ)があることを示していた。それだけで幸せだったのではないか。けれども人は今ある感情の「その先」を求めてしまう。

老人は最後に踊り子が置いて行ったカセットから流れる陽気なポップスに乗って、夢心地で踊る。幸せそうに踊る老人は、夢を見ているのだろうか。踊り子を想っているのだろうか。踊り子との交流を回想しているのだろうか。二人の交流に終わりを告げられてしまったことを、忘れようとしているのだろうか。踊り子がくれた若返るような楽しい時間そのものにいつまでも浸っていたい、という風に私には見えた。


一見愛を失ったこの世界は、じつは定義しない方が幸せな愛で溢れているのかもしれない。最後の老人のダンスを見ながら、そんなことを思った。