私は文章が書けない

OL院生の文章リハビリ基地

心の焼け跡で知と愛を貪るミューズ――佐々木千世(子)について

私が今までに読んだ紀行文で最も心奪われた作品は、稀覯本となって久しく、入手が不可能に近い。

佐々木千世(本名:佐々木千世子、1933-1970年)という人が著した『ようこそ!ヤポンカ』(1962)という本である。手元に置くことはできないが、国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる(NDLと提携している大学図書館の閲覧PCからもアクセスが可能)。

この佐々木千世という人物は、開高健の長編小説『夏の闇』(1971)のヒロインである〈女〉のモデルとして知られる。あるいは、早稲田露文科の教師でありロシア・アヴァンギャルドの女性画家であったワルワーラ・ブブノワの愛弟子としても知られる。

*2019年に早稲田大学會津八一記念博物館でブブノワの企画展が開催されている。

佐々木千世は早稲田大学文学部でロシア文学を専攻し、細々としたライター業と流浪の日々を経て西ドイツのボン大学の研究員となった。同大学で博士号を取得した後、一時帰国中に深夜の交通事故で急逝した。新聞記事によれば享年37歳。

既存の文献から彼女について知りうるおよその情報は右記のブログ記事、自由人の系譜 開高健(3)「夏の闇」――『同伴者の本棚』よりにたいへん首尾よくまとめられており、私から付け足すことは何もない。
『ようこそ!ヤポンカ』からは、佐々木千世がロシア語、ドイツ語、英語を不自由なく操る語学堪能な女性であったことが窺える。現地の人からロシア語やドイツ語を賞賛されるようなくだりもある。ブブノワにロシア語で書簡をしたため、ドイツ語でノモンハン事件についての博士論文を書き上げているのだから当たり前といえば当たり前なのだが、奇しくも数十年後に同じ大学学部で同じ二言語を齧ってあえなく挫折した私に言わせれば、もっと脚光を浴びてもよかったはずの才覚の持ち主だと思う(早稲田文学部卒でこの二言語の習得者といえば、多和田葉子もいる)。同世代の才女としては須賀敦子などが挙げられるだろうか。

『ようこそ!ヤポンカ』の明朗で切れ味鋭い語り口の向こうに想像される聡明な女性像は、『夏の闇』の〈女〉の姿とぴったり重なる。一枚の写真にうつる彼女の姿も、いかにも怜悧な美人である。『夏の闇』では〈女〉が何やらがっしりとした身体つきであることが度々仄めかされるが、写真をみる限り、当時の女性としては痩せぎすでなかっただけで、外国人と一緒に写ってもちんちくりんには見えない綺麗なプロポーションをしているように思う(その後に肉付きがよくなったのかもしれないが)。
正直なところ私は開高健にはあまり興味がない。それでも『夏の闇』は傑作だと思う。快活さと陰鬱さ、奔放さと知性が表裏一体をなす〈女〉の言動と、そこに垣間みえる彼女の生き様が〈私〉の虚脱感と呼応していく――それは彼らが繰り返し情愛に耽る行為に象徴される――描写がみごとである。後半部に出てくるいくつかの〈女〉の長い独白の筆致は凄まじい。凄まじいが、ともすればこれらは実際に佐々木千世の口から発せられた言葉なのではないか、とも勘ぐってしまう。

彼女こそが開高のミューズであり、『夏の闇』によって永遠の〈女〉の称号を手にしたのだと確信させられる。むろん小説なのだから、脚色や事実の歪曲も大いにあるだろう。それにしても、〈女〉の稀有で危うい魅力がいったいどんな過去の経験と心の動きによって形成されたのかに何年もかけて思いを巡らす〈私〉=開高には、なんだかんだで(興味がないながらも)研ぎ澄まされた感受性と当人なりの誠意を感じたりする。
愛や死について思案させられる出来事があるたび、私は佐々木千世という人物について考えてしまう。彼女のなかで、知を貪ることと情愛を貪ることはどのように結び付いていたのか。彼女はその二者の間で危うい均衡を保っていたのだろうか。日本で騙し騙し生きるよりも、海外で辛酸を舐めながらも勉強に取り組むことが彼女の自尊心を守る手立てだったのだろうか。僭越きわまりないが、私には彼女に問いかけたいことがたくさんある――佐々木千世さん、あなたはどのように生きたかったのですか。あなたにとって勉強とは何だったのですか。あなたは愛を見つけることができたのですか――。その答えが、私の人生にとって何某かの指針になる気がしている。だから私は事あるごとに彼女の像に接近しようと試みて、『ようこそ!ヤポンカ』と『夏の闇』を読み返してしまうのだと思う。