私は文章が書けない

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この世で最も虚しい共感――アニエス・ヴァルダの『冬の旅』

アニエス・ヴァルダの『冬の旅』で死に至る少女モナの旅の過程はあまりに哀しく痛ましい。
モナと道中で関わり合いになる人々は、モナがいる間は一応彼女のことを気にかけるものの、離れた後に彼女の安否を気にして追いかけ探し回るような人はひとりも出てこない。
唯一その立ち位置に近かった女性教授は、その清潔で華麗に着飾った姿がモナの度々「汚い」と形容される身なりと残酷なまでに対比されており、そこには人間としての何か決定的な断絶のようなものが示されているように思う。
旅の過程で出会う人たちは、皆が皆、何かしらモナの「持たざる」要素を浮き彫りにする。家を持つ人、食べ物を持つ人、仕事を持つ人、資産を持つ人、哲学を持つ人、目標を持つ人、仲間を持つ人、情熱を持つ人――。
むろんそれは、モナが徹底して何も持たない少女だからであり、ヴァルダは決してドラマチックに悲劇を演出するような撮り方はしていない。むしろ突き放したように淡々とモナの足跡をたどる手つきが特徴的である。
モナは働きたくないこと、好んで放浪生活をしていることを主張するが、いざとなったときに何も縋るものがなくて、命を落としてしまう。一時は彼女を気に掛けたあの女性も、彼女に憧れたあの女性も、彼女とセックスをしたあの男やあの男も、彼女の危機の時にはだれひとりとして近くにはいなかった。本当に気にかけてくれる人がいなかったら、人は死んでしまうのだ。
モナと関わる人々は、彼女を労働の人手として捉えたり、都合のよい恋人(または性欲の捌け口)として扱ったり、あるいは女性教授のような親切心であってもどこか「身寄りのない汚い女の子」という上から目線が存在していて、主従の関係が透けて見える。日雇い労働や、住まいを提供してくれる男と一時的に恋愛関係になることをモナは「対等なギブアンドテイクの関係」と捉えているようだが、悲しいかな、与える側と持たざる側の主従関係からは逃れられていないように見える。
そんな中、屋敷の主人のお婆さんとの関係だけは例外で、「冬の旅」を通して冷え切った心がつかの間温まる場面である。あのお婆さんは、邸宅も資産も仕えてくれる者も持っているけれど、残りの寿命だけは多分そう長くはない。何も持っていないモナは、まだ若い。何もかもを持て余した老い先短い者と、何もないけれど未来の時間だけは持て余していたはずのモナが心を通わせた瞬間は、モナの死に向けてのひとつのターニングポイントだったように思う。あの時間の先には未来があったはずだが、あの時間が続かなかったことでモナは死ぬまで放浪し続けることが決定づけられてしまった。同時に、旅の終わりはそう遠いものではなくなってしまった。

冒頭で結末が示され、あとは淡々とモナの旅の様子が描かれるというきわめてシンプルな映画である『冬の旅』がなぜこんなにも人を惹きつけるのか。
私たちが絶望や孤独を感じるのは、自分に「ない」ものを自覚させられるときだ。高級取りの同年代を見て落ち込む。同じフィールドで自分よりも成功している人を見て憂鬱になる。ちやほやされている他人の姿や、SNSでフォロワー数の多い人なんかを見てモヤモヤする。結婚や同棲をしている友人を見てネガティブな気持ちになる。コミュニティの中で自分だけが馴染めていない時に憂鬱になる。
そんなとき、「私ははじめからそんなものは望んでいないんだ」と言い張って、何とも思っていないふりをしたくなる。自分の居場所、自分の取り柄、自分のフィールドが「ない」と認めることは何より辛いから。
世の中には、「ない」ことを自覚して、悲観して、吐露して生きている人もいるだろう。「ない」ことを耐え忍んで笑って生きている人もいるだろう。「ない」ことを甘んじて受け入れている人もいるだろう。「ない」ことを自ら選んでいる、というふりをしている人もいるだろう。
モナの孤独の在り方は、そのだれもが共感や自己投影をしやすいように思う。モナは自ら他人を突っぱねて奔放に振る舞っているようなところがあるけれど、その自由は彼女を救いはしなかった。彼女の行く先には「自由」と「孤独」の残酷なジレンマが立ちはだかっていた。「自由」と「孤独」を天秤にかけて生きる人は皆、彼女に共感をしたり、彼女を「こうなっていたかもしれない自分」の象徴のように見ることができるだろう。
そして、私たちからそんな都合の良い共感を寄せられるモナはますます可哀想だ。だって彼女は周りにこういう一過性の感情しか寄せられなかったせいで死んでしまったのだから。まるで共感をしていないヴァルダの冷めた視点は、自由を得たかったモナの最後のプライドを守っているといえる。